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思い出写真館ー近藤勇ー

  近藤勇

 “加茂の河原に~千鳥が騒ぐ~またも血の雨~涙雨~”あゝ 新選組・・・三橋美智也
 きょう想い起こされるのが‘新選組(しんせんぐみ)局長’として幕末に活躍した『近藤勇(こんどういさみ)』です。

 天保5年(1834)、武蔵国(むさしのくに)多摩郡(現:東京・調布)に生まれた「近藤勇」は、14代将軍‘徳川家茂(とくがわいえもち)’が上洛する際、警護のために募集された浪士隊に参加します。

 その後、「勇」は京都守護職支配下に属して‘新選組’を結成し、局長となりました。

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ー‘新選組’発祥地‘壬生屯所(みぶとんしょ)跡’(京都・壬生)ですー

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        ー‘壬生寺’にある「近藤勇」の胸像ですー

 京都を守る正式な治安部隊となった‘新選組’は、京都を焼討しようとしていた長州藩一派を鎮圧して、その名は日本中に知られるところとなりました。

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        ー‘池田屋事件の址’(京都・三条)ですー
 
 慶応4年(1868)、‘鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦い’で幕府が官軍に敗れ、下総国(しもうさのくに)流山(現:千葉・流山)で降伏した「勇」は‘板橋刑場(いたばしけいじょう)’(東京・板橋)で斬首され、‘三条河原(さんじょうがわら)’(京都・三条)に3日間梟首されました。

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         ー‘板橋’にある「近藤勇」の墓所ですー

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             ー‘三条河原’ですー

 きょうは「近藤勇」が斬首された日(慶応4年(1868):享年35歳)です。

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思い出写真館ー紀伊國屋文左衛門ー

  紀伊國屋文左衛門

 “沖の暗いのに白帆が見ゆる あれは紀ノ国ミカン船”
 きょう想い起こされるのが元禄時代の豪商『紀伊國屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)』です。

 「文左衛門」は20代のある年、暴風雨をついて故郷‘紀州’(和歌山)から蜜柑船を‘江戸’(東京)へ回漕し、帰りに‘江戸’から塩鮭を‘上方’に運んで富を築いたことや、材木商を営み、巨利を得たという話がよく知られています。
 また、こうした財力を背景に、‘吉原(よしわら)遊郭’(東京・千束)での豪遊の逸話も残っています。
 晩年は材木商を廃業し‘深川(ふかがわ)’で過しましたが、家運は衰退。以降は乞食同然の哀れな生活を送ったとも言われています。

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ー「文左衛門」の別邸があったと伝えられている‘清澄庭園(きよすみていえん)’(東京・清澄)ですー

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ー‘成等院(じょうとういん)’(東京・深川)にある「文左衛門」の墓ですー

 きょうは「紀伊國屋文左衛門」が亡くなった日(享保19年(1734):享年66歳)です。

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思い出写真館ー城めぐり28・江戸城2ー

  江戸城ー2ー

 一般に公開されている‘東御苑’を見てみましょう。

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 「百人番所」です。

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ー鉄砲百人組と呼ばれ、加賀組など4組が昼夜交代で詰め、各組には同心が100人づつ配属されていましたー

 「大番所」です。

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ー仲の門の側にあり、他の番所より身分の高い与力・同心によって警護されていましたー

 「天守台」です。

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ー「江戸城」の天守閣があったところで、現在石積みが残っていますー

 「松の廊下跡」です。

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ー‘浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)’の刃傷事件で知られていますー

 “城めぐり”は今回で終了です。お付き合いくださり、ありがとうございました。

 註:別の項でご紹介済みの城=弘前城(青森)・広島城(広島)・二条城(京都)・姫路城(兵庫)・赤穂城(兵庫)・鶴ヶ城(福島)・首里城(沖縄)・松江城(島根)・大和郡山城(奈良)・小谷城(滋賀)・長浜城(滋賀)・伊賀上野城(三重)・彦根城(滋賀)・安土城(滋賀)・岡山城(岡山)・霞ヶ城(福島)・青葉城(宮城)・岸和田城(大阪)

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思い出写真館ー城めぐり27・江戸城1ー

  江戸城ー1ー

 城の結びは何んと云っても『江戸城(皇居)』(東京)でしょう。

 「江戸城」は、‘大田道灌(おおたどうかん)’が長禄元年(1457)に築いたのが始まりと言われています。
 
 関ヶ原合戦後、江戸幕府が開かれてからは首都となり、幕府の威厳を示すため‘徳川家康(とくがわいえやす)’が全国の大名を動員して日本一の規模を誇る天守閣を築きました。
 2代将軍‘秀忠(ひでただ)’がさらに大きな天守閣を建て、3代将軍‘家光(家光)’が再建しました。
 城域は広大で、‘西の丸’は明治2年(1869)の遷都以降は「皇居」として使用され、立ち入りが出来ませんが、‘東御苑’は開放されています。

 「皇居」に現存する「江戸城」の遺構や建造物の幾つをご紹介してみます。

 「大手門」です。

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      ー大名や役人が本丸に登城する際の正門でしたー

 「平川門」です。

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ー大奥の女性たちの出入りする通用門でもあり、また、城中の死者や罪人をこの門から出したので「不浄門」とも呼ばれましたー

 「桜田門」です。

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 ーかつて西の丸大手を防衛するための門で、現在自由に出入りできる数少ない旧江戸城城門の一つですー

 「二重橋」です。

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         ー皇居正門の奥に架かる橋ですー
 

 

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思い出写真館ー城めぐり26・鳥取城址・備中高松城址ー

  鳥取城址・備中高松城址

 鳥取城址

 『鳥取城址(とっとりじょうし)』(鳥取)は、天文14年(1545)因幡の守護神‘山名誠通(やまなのぶみち)’が築き、江戸時代以降‘池田藩’の中心として栄えた山城跡です。

 現在は石垣や復元された城門などが「鳥取城址」として残っています。

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 備中高松城址

 『備中高松城址(びっちゅうたかまつじょうし)』(岡山)は、‘羽柴秀吉(はしばひでよし)’の“水攻め”で有名な城跡です。

 天正10年(1582)‘織田信長(おだのぶなが)’の命により中国攻めの先鋒を任された‘秀吉’が、難攻不落を誇っていた「高松城」攻城のために堰堤を築いて周囲を囲み、水を溢れさせて水没させた、世に言う“高松城水攻め”です。

 現在は堰堤が僅かに残るのみで、本丸跡は公園になっています。

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ー‘秀吉’がここに‘信長’を招く準備していた時“本能寺の変”が起こり、すぐさま主君の仇敵‘明智光秀(あけちみつひで)’と対決すべく“中国の大返し”を行い、強行軍で近畿に引き返したのですー

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思い出写真館ー徳川家康(2)ー

  徳川家康(2)

 きのうの続きです。

 「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」の命令により関東に移り‘江戸城’(東京)を築きます。

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     ー天主代用櫓である‘富士見櫓(ふじみやぐら)’ですー

 慶長3年(1598)8月18日、「太閤秀吉」が薨去、その2年後の慶長5年(1600)9月15日、ついに戦いの火ぶたが切って落されました。天下分け目の戦い‘関ヶ原(せきがはら)の合戦’(岐阜)です。

 「石田三成(いしだ みつなり」を破り、東軍を勝利に導いた「家康」は天下の実権を握り、‘征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)’となって‘江戸幕府(えどばくふ)’を開きました。

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    ー上の写真2枚は‘関ヶ原合戦資料館’で撮ったものですー

 三男「秀忠(ひでただ)」に将軍職を譲って‘駿府城(すんぷじょう)’(静岡)に引退してからも実権を離さず、‘大阪冬の陣’、‘大阪夏の陣’を起こして‘豊臣氏’を滅ぼし、戦国時代を終わらせました。

 死後は‘日光(にっこう)’(栃木)に祀られて‘東照大権現(とうしょうだいごんげん)’と崇められ、江戸時代を通じて政治的権威の源となりました。

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     ー‘日光東照宮’の奥社にある「家康公」の墓所ですー

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ー‘高野山(こうやさん)’(和歌山)にある‘徳川家霊台(れいだい)’です。寛永20年(1643)3代将軍「徳川家光(とくがわ いえみつ)」が建立した「家康」と「秀忠」の霊廟ですー

 きのうは「家康」が波乱に満ちた一生に幕を閉じた日でした。

 
 

 

 

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思い出写真館ー徳川家康(1)ー

  徳川家康(1)

 “人の一生は 重きを負うて遠き道を行くがごとし 急ぐべからず・・・”
 きょう想い起こされるのが、多くの苦難の末全国統一の念願を果たし、徳川幕政の礎を築いた戦国武将『徳川家康(とくがわ いえやす)』です。

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 「家康」は天文11年(1542)三河国‘岡崎城’(愛知・岡崎)で誕生しました。

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    ー「家康」生誕時に使用した‘産湯(うぶゆ)の井戸’ですー

 永禄3年(1560)‘桶狭間(おけはざま)の戦い’(愛知・名古屋)で「織田信長(おだ のぶなが)」が「今川義元(いまがわ よしもと)を倒すと、「信長」と手を組み‘三河の国’(愛知)統一を進めます。

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       ー‘桶狭間古戦場’と‘今川義元’の墓ですー

 元亀元年(1570)‘岡崎城’から‘浜松城’(静岡・浜松)に移った「家康」は17年間この地で過し、‘姉川(あねがわ)’、‘長篠(ながしの’、‘長久手(ながくて)’、‘見方が原(みかたがはら)’などの難戦を乗り越え、次々と勢力を伸ばしていきます。

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      ー「家康」にあやかり出世城とも呼ばれていますー

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ー勝草と呼ばれためでたい歯朶(しだ)を手にした若き日の「家康」の姿ですー

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          ー‘姉川古戦場(滋賀・長浜)’ですー
 
 きょうは「徳川家康」が波乱に満ちた生涯を終えた日(天和2年(1616):享年75歳)です。
 乱世を生きぬいた努力と忍耐の一生でした。残りはあすにします。

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思い出写真館ー金閣寺ー

  金閣寺

 きょう想い起されるのが京都随一の観光寺院『金閣寺(きんかくじ)』(京都市・北区)です。

 室町時代前期に形成された北山文化の象徴で、正式名は「鹿苑寺(ろくおんじ)」です。
 室町幕府3代将軍「足利義満(あしかが よしみつ)」が造営した‘北山殿(きたやまどの)’がその前身で、黄金に輝く‘舎利殿(しやりでん)’があまりに有名なため「金閣寺」と呼ばれるようになりました。

 極楽浄土を表したという境内は、まさに絢爛豪華。3層の楼閣の1層は寝殿造、2層は武家造の仏間風、3層は禅宗仏殿風と異なった建築様式をみせています。
 黄金への関心が強かった「義満」の意向で、2層と3層には塗りの上に金箔を貼り付けて贅を尽くし、自身の威光を見せつけました。

 浄土庭園‘鏡湖池(きょうこち)’の畔に佇む「金閣」は、昭和25年(1950)学僧の放火によって炎上しましたが、5年後の昭和30年(1955)に再建、昭和62年(1987)に金箔が張り替えられ、往時の姿を伝えています。

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 余談ですが、金閣焼失の事件は、‘三島由紀夫(みしま ゆきお)’の小説「金閣寺」、‘水上勉(みなかみ つとむ)’の小説「五番町夕霧楼」・「金閣炎上」の題材にもなっています。

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 ー足利家の菩提寺「等持院(とうじいん)」(京都市・北区)に安置されている「義満」の木像ですー

 今日は‘足利義満’が「金閣寺」を建て、上棟式を行った日(応永4年(1397))です。

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思い出写真館ー春の高山祭ー

  春の高山祭

 ‘飛騨路’に一足遅い春の訪れを告げる『春の高山祭』(岐阜・飛騨高山)が始まりました。
 この祭は‘秩父の夜祭’‘京都の祇園祭’と並ぶ日本三大美祭の一つで、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
 わたしも9年前に見物しました。

 金箔や朱で彩られ、龍や鳳凰などの精密な彫刻が施された絢爛豪華な‘屋台’や‘山車’が古い町並みを練り歩きます。

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 飛騨の匠の技が光る‘屋台’の上では、‘からくり人形’がお囃子に合わせて巧みな動きで舞います。

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 生きているかのような人形の繊細かつ大胆な演技に魅せられ、大勢の観光客に混じってシャッターを押し続けました。

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思い出写真館ー高杉晋作ー

  高杉晋作

 きょう想い起こされるのが、昨年の大河ドラマ‘龍馬伝’に度々登場し、すっかりお馴染みになった‘尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士’『高杉晋作(たかすぎ しんさく)』です。

 幕末の動乱の時代、天保10年(1839)‘萩’(山口)で生まれた「晋作」は、19歳で‘松下村塾(しょうかそんじゅく)’門下生となり、‘吉田松陰(よしだ しょういん)’に大きな影響を受け、‘松陰’の遺志を実現するため文字通り走り続けます。
 若い血を倒幕に燃やし、文久3年(1863)に‘ 奇兵隊(きへいたい)’を創設するなど、長州藩を倒幕の方向に決定付けた立役者として知られています。

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        ー「晋作」が生まれ育った旧宅ですー

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  ー「晋作」が幼少のころよく遊んだ‘円政寺(えんせいじ)’ですー

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        ー「晋作」が学んだ‘松下村塾’ですー

 明治維新のきっかけをつくり、日本の歴史に大きな変革を起こし続けた「晋作」は、肺結核におかされ療養生活に入り“おもしろき こともなき世を おもしろく”という辞世の句を残してその激動の人生の幕を閉じました。

 「晋作」が亡くなって半年後、15代将軍‘徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)’は、政権を返上することを申し出て‘大政奉還(たいせいほうかん)’が行われ、260年あまり続いた江戸幕府が倒れて明治の世となったのです。

 きょうは「高杉晋作」が亡くなった日(慶応3年(1867):享年27歳)です。

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思い出写真館ー石川啄木ー

  石川啄木

 “東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる”
 “ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな”

 きょう想い起こされるのが歌集「一握(いちあく)の砂」「悲しき玩具(がんぐ)」など三行書きの表現方法と、生活を歌う題材の新鮮さによって天才詩人の名声を得た『石川啄木(いしかわ たくぼく)』です。

 ‘岩手’の寺に生まれ、‘渋民村’(盛岡)で成長した「啄木」は、生活難のため母校の代用教員になります。
 “かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川”
 
 明治40年(1907)に新天地を求めて北海道に渡り、1年の漂白生活を続けた後上京して創作活動にはいります。
 しかし、書いた小説は少しも売れず、窮乏の生活が続きます。
 “はたらけど はたらけどわが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る”

 北海道放浪を経て上京した「啄木」は、最初に住んだ下宿を家賃滞納で出て行かざるを得なくなり、友人の言語学者‘金田一京助(きんだいち きょうすけ)’の世話で新しい下宿屋の3階の三畳半の部屋に移ります。

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     ー下宿屋の玄関に建つ歌碑(東京・本郷)ですー

 「啄木」の創作意欲は短歌によって表現せられ、生活の現実に根ざした作品で歌壇に新風を吹き込みました。
 “たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず”
 
 明治42年(1909)‘東京朝日新聞社’に職を得ますが、3年後に肺結核を患い、波乱に富む薄幸の生涯を終えました。

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     ー‘旧東京新聞社跡地’の歌碑(東京・銀座)ですー          

 処女歌集「一握の砂」は、明治41年(1908)から明治43年(1910)までの作品551首を収録、「悲しき玩具」は、晩年の明治43年(1910)から明治44年(1911)までの194首と歌論2編を収録し、死後2ヶ月をへて刊行されたもので、すべて東京で生活中の作品です。

 きょう4月13日は「石川啄木」が亡くなった日(明治45年(1912):享年27歳)です。

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思い出写真館ー城めぐり25・尾道城・因島水軍城ー

  尾道城・因島水軍城

 尾道城

 『尾道城(おのみちじょう)』(広島・尾道)は、昭和39年(1964)に近世の城の天守を模して建てられた鉄筋の建築物で、歴史的な価値はありませんが、外観は城であるためそう呼ばれています。

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        ー現在は閉鎖しており、廃墟化していますー

 因島水軍城

 『因島水軍城(いんのしますいぐんじょう)』(広島・尾道)は、昭和58年に築城された日本で唯一の水軍城です。

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ー因島を拠点に、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した‘村上水軍(むらかみすいぐん)’ゆかりの武具や甲冑を展示していますー

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思い出写真館ー城めぐり24・明石城・淀城址ー

  明石城・淀城址

 明石城

 『明石城(あかしじょう)』(兵庫・明石)は、大阪の陣で戦功により10万石を与えられた‘小笠原忠真(おがさわらただざね)’が、元和5年(1619)に築城したものです。

 この城には天守閣はなく、20数基の‘隅櫓(すみやぐら)’が建っていましたが、現在残るのは2層の‘坤櫓(ひつじさるやぐら)’と‘巽櫓(たつみやぐら)’のみになっています。

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 城跡は‘明石公園’となっており、城の見える公園として市民の憩いの場となっています

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ー別名「錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる「明石城」は、平成18年(2006)に日本100名城(58番)に選定されましたー

 淀城址

 『淀城址(よどじょうし)』(京都・淀)は、寛永2年(1625)徳川二代将軍‘秀忠(ひでただ)’が‘松平定綱(まつだいらさだつな)’に命じて造らせた城跡です。

 現在は石垣を残すのみになっており、わずかに石標が「淀城」の跡を示しています。

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ー註:‘淀君(よどぎみ)’ゆかりの「淀城」はこの跡にはなく、北方約500mの‘納所(のうそ)’にあったと推定されますー

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思い出写真館ー武者小路実篤ー

  武者小路実篤

 きのう想い起こされたのが、白樺派を代表する小説家『武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)』です。

 明治43年(1910)に‘志賀直哉(しが なおや)’や‘有島武郎(ありしま たけお)’らと文芸雑誌「白樺(しらかば)」を創刊した「実篤」は、以後‘友情’‘愛と死’‘心理先生’などを発表。60余年にわたって小説・戯曲・詩・随筆など6000以上の作品を執筆しました。
 また、画家としての造詣が深く、晩年、野菜の絵に“仲良きことは 美しき哉”“君は君 我は我なり されど仲良き”などの文を添えた色紙を盛んに揮毫したことでも有名です。
 昭和30年(1955)に武蔵野の自然と豊富な清水をたたえた仙川(東京・調布)の地を仕事場兼自己完成の場として選びました。

 旧邸は記念館と公園になっており、一般公開されています。わたしも18年前に訪ねました。

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          ー‘武者小路実篤記念館’ですー

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            ー‘実篤公園’ですー

 きのうは「武者小路実篤」が亡くなった日(昭和51年(1976):行年90歳)でした。

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思い出写真館ー大仏開眼ー

  大仏開眼

 きょう想い起こされるのが、‘東大寺’(奈良)の 本尊『大仏(盧舎那仏)』です。 

 疫病や、旱魃・飢饉、大地震などが続いた天平年間。民の不安を取り除き、国の安定を願った時の帝‘聖武天皇(しょうむてんのう)’は天平15年(743)、‘大仏建立’の詔(みことのり)を発します。
 天平19年(747)に鋳造が開始された‘大仏’は、2年後の天平勝宝元年(749)に完成、「開眼供養会(かいげんくようえ)」が盛大に開催されることとなりました。
 ‘大仏’と‘大仏殿’はその後2度焼失しましたが、その都度、時の権力者の支援を得て再興されました。

 現存の‘大仏’は高さ14.25m、重さ380tで、昔の姿を残すのは台座の蓮弁のみです。

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 現存の‘大仏殿’は幅(東西)57.5m、奥行50.5m、棟までの高さ49.1mで、世界最大の木造建築です。

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 きょうは「大仏開眼供養会(魂入れの儀式)」が行われた日(天平勝宝4年(752))です。

 

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思い出写真館ー高浜虚子ー

  高浜虚子

 “遠山に 日の当たりたる 枯野哉”
 “春風や 闘志抱きて 丘に立つ”
 “去年今年 貫く棒の 如きもの”
 きょう想い起こされるのが、‘俳句こそが「花鳥諷詠」「客観写生」の詩である’という理念を掲げ、生涯に20万句を超える俳句を詠んだ『高浜虚子(たかはま きょし)』です。

 松山(愛媛)で生まれた「虚子」は、‘正岡子規(まさおか しき)’の友人‘柳原極堂(やなぎはら きょくどう)’が明治30年(1897)に創刊した俳誌「ホトトギス」を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えた俳句文芸誌として再出発させます。
 ‘夏目漱石(なつめ そうせき)から小説「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」の寄稿を受けるなど「ホトトギス」を保守俳壇の最有力誌として隆盛に導きました。

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      ー‘旧宅跡’の表示板(松山・一番町)ですー

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   ー‘ホトトギス’創刊の地を示す碑(松山・北立花町)ですー
  
 「虚子」は、明治43年(1910)一家をあげて鎌倉(神奈川)に移住。以来、亡くなるまでの50年間を過ごしました。

 故郷に建てられている「虚子」の句碑です。

 “遠山に 日の当たりたる 枯野哉”

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ー「虚子」のもっとも好む句で、明治33年(1900)の句会での作ですー(松山・東雲神社)

 “笹啼が 初音になりし 頃のこと”

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ー昭和21年(1946)のホトトギス600号記念会で詠まれた句ですー(松山・正宗寺)
 
 墓は‘寿福寺(じゅふくじ)’(鎌倉)にあります。

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 きょうは「高浜虚子」が亡くなった日(昭和34年(1959):行年85歳)‘椿寿忌(ちんじゅき)’です。

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思い出写真館ー尾崎放哉ー

  尾崎放哉

 “咳をしても 一人”
 “いれものがない 両手でうける”
 きょう想い起こされるのが‘種田山頭火(たねだ さんとうか)’とならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人『尾崎放哉(おざき ほうさい)』です。

 明治18年((1885)鳥取市で生まれた「放哉」は東京帝大法科を卒業後、生命保険会社の要職に就きますが、大正12年(1923)妻と財を捨て‘知恩院’(京都)の寺男になります。
 その後寺を転々とし、無一物の托鉢生活に入った「放哉」は、自由律俳句の先輩‘荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)’の紹介で小豆島(香川)に渡り、‘南郷庵(みなんごあん)’の庵主として居住します。
 俳句三昧の生活を営む「放哉」でしたが、極度の栄養失調と持病を悪化させ、近くに住む漁師夫婦の看病にもかかわらず翌年入寂しました。

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ー写真は小豆島旅行の際に立ち寄った「放哉」が暮らした庵(現:記念館)と墓ですー

 “春の山のうしろから 烟が出だした”(辞世)
 きょう4月7日は「尾崎放哉」が亡くなった日(大正15年(1926):享年41歳‘大空放哉居士’)です。

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思い出写真館ーサンシャイン60ー

  サンシャイン60

 きょう想い起こされるのが、昭和48年(1973)から建設が進められ、今や‘池袋’(東京)のランドマーク的役割を果たしている『サンシャイン60』です。

 ‘東京拘置所(巣鴨プリズン)’跡地に建設された「サンシャイン60」は、地下5階・地上60階で、最高部に都内一高い展望台(239.7m)があり、これを中心とした「サンシャインシティ」は、水族館や、ホテル、劇場、博物館、専門店などを擁した日本初の複合都市施設で、毎年約3千万人が来場しています。

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 極東国際軍事裁判でA級戦犯の‘東条英機(とうじょうひでき)’ら7名の死刑が執行されたホテル横の‘東池袋公園’(巣鴨プリズン跡)には、慰霊碑が立てられ“永久平和を願って”と刻まれています。

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 きょう4月6日は「サンシャイン60」が竣工した日(昭和53年(1978))です。

 

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思い出写真館ー明石海峡大橋ー

  明石海峡大橋

 きょう想い起こされるのが‘淡路’と‘神戸’を結ぶ世界最長の吊り橋『明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)』です。

 本州四国連絡橋(本四架橋)3ルートの一つとして昭和63年(1988)に着工した「明石海峡大橋」は、全長3,911m、主塔の高さが海面上298,3mで、国内では‘東京スカイツリー’‘東京タワー’に次ぎ、‘横花ランドマークタワー’を超える高さの建造物です。
 「神戸淡路鳴門自動車道」と共用されており、四国と近畿、更には本州の各大都市間を結ぶ交通の要になっています。

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 わたしが初めて訪ねたのは、橋が中央で繋がる直前の平成8年(1996)9月でした。

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 きょう4月5日は「明石海峡大橋」が開通した日(平成10年(1998))です。

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思い出写真館ー城めぐり23・富山城・小浜城址ー

  富山城・小浜城址

 富山城

 『富山城(とやまじょう)』(富山)は、豪族・‘水越勝重(みずこしかつしげ)’が天文元年(1532)に築いた平城で、四周を水郷と河川とで2重に囲まれ、川面に浮かぶ様子であったことから、「浮城(うきしろ)」ともいわれました。

 昭和29年(1954)鉄筋コンクリートによる模擬天守が建てられ、内部は‘郷土博物館’になっています。

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ー外壁は北陸城郭の特徴である‘海鼠壁(なまこかべ)’風に仕上げられていますー

 小浜城址

 『小浜城址(おばまじょうし)』(福井・小浜)は、慶長6年(1601)戦国の武将で江戸時代初期の大名‘京極高次(きょうごくたかつぐ)’が築城。‘織田信長(おだのぶなが)’の姪に当たる‘浅井(あざい)三姉妹’の次女‘初(はつ)’を妻として暮らし、その後、武蔵川越藩2代藩主であった‘酒井忠勝(さかいただかつ)’の居城となって明治まで続いた城跡です。

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        ー現在は石垣を残すだけとなっていますー

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思い出写真館ー城めぐり22・伏見桃山城ー

  伏見桃山城

 『伏見桃山城(ふしみももやまじょう)』(京都・伏見)は、天正20年(1592)‘豊臣秀吉’が隠居所として築城し、‘徳川家康’が再興した城でした。
 しかし、‘二条城’の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和9年(1623)廃城となり、天守や櫓などは全国の城へ分与されました。

 5層7階の立派な「大天守閣」や、3層の「小天守閣」が聳える現在の城は昭和39年に再建されたもので、鉄筋コンクリートの模擬城です。

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              ー模擬大手門ですー

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               ー模擬天守ですー

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              ー模擬天守と小天守ですー

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              ー模擬小天守ですー

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思い出写真館ー高村光太郎ー

  高村光太郎

 “智恵子は東京に空がないと言う。本当の空が見たいと言う”・・・智恵子抄
 きょう想い起されるされるのが、詩集‘智恵子抄(ちえこしょう)’の作者であり、また彫刻家としても知られる『高村光太郎(たかむらこうたろう)』です。

 欧米留学から帰国した「光太郎」は、二本松(福島)の‘花霞(はなかすみ)’醸造元の長女で女流洋画家「長沼智恵子(ながぬま ちえこ)と出会い、31歳で結婚します。(大正3年)

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 その後「智恵子」の実家が破産。この頃から「智恵子」は精神に異常をきたし、昭和13年(1938)死別します。(智恵子52歳)
 「光太郎」にとって最愛の人を失ったショックは大きく、共に生きた思い出を一心に綴り‘千恵子抄’を完成させました。

 “あれが安達太良山 あの光るのが阿武隈川”・・・‘安達太良山(あだたらやま)’近くの小高い丘に詩碑が刻まれています。

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 ‘十和田湖(青森)’湖畔に2体の裸婦グロンズ像‘乙女の像’が立っています。
 「光太郎」最後の作品として知られ、‘十和田湖(とわだこ)’のシンボルになっています。

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 「光太郎・智恵子」の墓は、染井霊園(東京・駒込)にあります。
 
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 きょう4月2日は「高村光太郎」の命日(昭和31年(1956)没:享年73歳)です。

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思い出写真館ー花博ー

  花博

 きょう想い起こされたのが古い話で恐縮ですが、大阪(鶴見緑地)で開催された『国際花と緑の博覧会』(花の万博)です。

 ‘花と緑と人間生活のかかわりをとらえ21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす’をテーマに開かれた「花の万博」(花博)は、会場面積140haに日本企業を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加しました。
 全面ガラス張りの日本最大級を誇る大温室‘さくやこの花館’や、絵本の世界を体験できる‘いんなあとりっぷ館’などのパピリオンが人気を呼び、9月30日まで半年の期間中総来場者数は2300万人を超え、特別博覧会史上最高を記録しました。
 わたしも開幕2ヶ月半後に訪ねました。

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         ー「花博」の‘中央ゲート’ですー

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ー高さ90m、「花博」のシンボルタワー‘生命の大樹・いのちの塔’ですー

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    ー人物奥が人気のパピリオン‘いんなあとりっぷ館’ですー

 きょう4月1日は「花博」が開幕した日(平成2年(1990))です。

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思い出写真館ーエッフェル塔ー

  エッフェル塔

 きょう想い起こされるのが、フランスの首都・パリのランドマークとなっている『エッフェル塔』です。

 「エッフェル塔」は、フランス革命100周年を記念してパリで行われた‘第4回万国博覧会’のメイン・モニュメントために建造されました。
 橋梁専門の建築技師‘ギュスダウ・エッフェル’の設計による高さ324mのこの塔の建設は‘万博’に間にあわせるため、わずか2年2ヶ月という驚異的早さで行われましたが、1人の死者も出さなかったそうです。
 高度な鉄骨構造技術を証明した‘エッフェル’の名が付けられた塔の完成です。

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   ー写真は25年前、ヨーロッパ旅行の際に撮ったものですー

 きょうは「エッフェル塔」が完成した日(1889)です。

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思い出写真館ー城めぐり21・大洲城ー

  大洲城

 『大洲城』(愛媛・大洲)は元弘元年(1331)に築かれたものを、江戸時代初期、‘藤堂高虎’らによって修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えました。

 廃藩までの大洲藩・加藤家13代の居城は、平成16年(2004)に、往時の姿を忠実に復元した木造4重4階(高さ:19.15m)の‘天守’として見事に甦りました。

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ー江戸時代から残る‘台所櫓’・‘南隅櫓’など4棟が国の重要文化財に指定されていますー
 

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思い出写真館ー八百屋お七ー

  八百屋お七

 “♪月を見てさえ 吉さま恋し~まして逢わなきゃ なおさらに~♪”八百屋お七・・・美空ひばり

 きょう想い起こされるのが、幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られる『八百屋お七(やおや おしち)』です。

 江戸・本郷の八百屋の娘「お七」は以前火事にあって寺に避難した折、そこの寺小姓「吉三郎(きちさぶろう)」と出会い、恋をします。
 やがて一家は再建された家に戻りますが、「吉三郎」のことが忘れられません。
 その思いがつのって、もう一度火事が起きたら会えるかもしれないと思い、付火をします。
 放火の大罪で捕えられた「お七」は‘鈴ヶ森刑場’(東京・品川)で火刑に処せられました。

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 この顛末は、一途な悲恋として「井原西鶴(いはら さいかく)」(江戸前期の俳諧師で浮世草子作者)によって取り上げられ、後に浄瑠璃など芝居の題材になりました。

 「お七」の墓は江戸観音12番札所として知られる‘圓乗寺(えんじょうじ)’(東京・白山)にあります。

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 きょうは「八百屋お七」が火あぶりの刑に処せられた日(天和3年(1683):享年16歳)です。

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思い出写真館ー松尾芭蕉ー

  松尾芭蕉

 きのう想い起こされたのが、俳聖『松尾芭蕉(まつお ばしょう)』です。

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 “月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり”
 紀行本「奥の細道」の書き出しです。

 ‘隅田川’のほとりにあった‘芭蕉庵’(江戸・深川)を引き払い、“草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家”の句を残して「芭蕉」は旅立ちます。

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 東北・北陸を巡って大垣(岐阜)に至る、全行程600里(2400㎞)、日数約150日間の旅が始まりました。

 行く先々で、今に残る名句を詠み込みました。

 平泉(岩手)では・・・“夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと”
 立石寺(山形)では・・“閑さや 岩にしみ入る 蝉の声”
 新庄(山形)では・・・“五月雨を あつめて早し 最上川”
 出雲崎(新潟)では・・“荒海や 佐渡によこたう 天の河”
 と、ご承知の通り限りがありません。

 結びの句は、大垣の“蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ”です。

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 ー‘芭蕉庵跡’(東京・江東区)です。“古池や 蛙(かはず)とび込む 水の音”の句もここで詠まれましたー
 
 きのうは「芭蕉」が、弟子の‘曾良(そら)’を伴って「奥の細道」の旅に出立した日(元禄2年(1689):46歳)でした。

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思い出写真館ー唐人お吉ー

  唐人お吉

 “♪泣いて昔が 返るなら~何で愚痴など 言うものか~♪”お吉物語・・・天津羽衣他
 きょう想い起こされるのが、幕末開港の裏に一輪の花と咲いた『唐人お吉(斎藤きち)』です。

 幼馴染の婚約者‘鶴松(つるまつ)’がいた芸妓「お吉」ですが、安政4年(1857)5月、幕府役人の執拗な説得に折れて日本の初代総領事として‘下田(伊豆)’に来ていた‘タウンゼント・ハリス’のもとへ侍妾として赴ききます。
 当初、人々は「お吉」に対して同情的でしたが、羽振りの良くなっていく「お吉」に対して次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになります。
 3ヶ月後の8月、解雇された「お吉」は酒色に耽るようになりますが、同情者の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開きます。

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  ーその店は今も現存しており、「お吉」の愛用の遺品が所蔵されてますー

 しかし、既にアルコール依存症となっていた「お吉」は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになります。
 
 “ハリスさんも死んだ。鶴さんも死んだ。今度は私の番なんだ。”
‘唐人’という世間の罵声と嘲笑をあびながら身をもちくずした「お吉」は‘稲生沢川(いのうさわかわ)’上流に身投げをして自殺します。

     ー‘宝福寺(ほうふくじ)’の一角に葬られてますー

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 きょうは「お吉」がそのはかない生涯を閉じた日(明治23年(1890):享年48歳)です。

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思い出写真館ー城めぐり20・今治城ー

  今治城

 『今治城(いまばりじょう)』(愛媛・今治)は、慶長9年(1604)、安土・桃山時代の大名で築城の名手‘藤堂高虎(とうどうたかとら)’が手がけた城です。

 全国的にもまれな海水を堀に引き入れた海岸平城で、昭和55年(1980)に5重6階の天守閣が復元され、日本100名城(79番)に選定されています。

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 平成16年に築城・開城400年を記念して‘高虎公’の銅像が建立されました。

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  ー「今治城」は「吹揚城(ふきあげじょう)」の別名をもっていますー

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思い出写真館ー明治村8ー

  明治村ー8ー

 きのうの続きです。明治村ご紹介の最終です。

 ー帝国ホテル中央玄関(東京・千代田区)ー
 20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家‘フランク・ロイド・ライト’によって設計され、4年間の大工事の後に完成した‘帝国ホテル’の中央玄関部です。大谷石には幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目入れて柔らかで華麗な外観を現出しています。ー大正12年建設ー

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     “降る雪や 明治は遠くなりにけり”・・・中村草田男

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思い出写真館ー明治村7ー

  明治村ー7ー

 きのうの続きです。

 ー大明寺聖パウロ教会堂(長崎)ー
 内部こそゴシック様式ですが、外観は、鐘楼を除けば普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残しています。ー明治12年建設ー 

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 ー金沢監獄正門・中央看守所・監房(石川)ー
 レンガ造の正門と洋式舎房が採用されており、八角形の中央看守所を中心に左右と正面奥に五つの舎房が放射状に配されています。広い廊下の左右には独居房の重い扉が整然と並んでいます。ー明治40年建設ー

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 あすも続きます。

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思い出写真館ー明治村6ー

  明治村ー6ー

 きのうの続きです。

ー本郷喜之床(東京・本郷)・小泉八雲避暑の家(静岡・焼津)ー
 左は理髪店で、二階二間は‘石川啄木(いしかわ たくぼく)’が、明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居です。ー明治末年頃の建築ー
 右は「怪談」で有名な‘小泉八雲(こいずみ やぐも)’が、東京へ移った翌年はら夏を過ごすようになり、その時身を寄せていた魚屋の家です。ー明治初年建築ー

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 ー聖ザビエル天主堂(京都)ー
 この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた‘フランシスコ・ザビエル’を記念して建てられたものです。ー明治23年建築ー

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 ー宇治山田郵便局(伊勢)ー
 ‘伊勢神宮’外宮前に所在した郵便局舎で、明治時代の木造郵便局舎としては現存する唯一のものです。ー明治42年建築ー

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 ー小那沙美島燈台(広島)ー
 広島湾から瀬戸内海への出口、‘宮島’脇の小さな島‘小那沙美島(こなさみじま)’に建造された灯台で、4段の円筒形燈柱に燈篭が載せられており、高さ7m足らずです。ー明治37年建造ー

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 ー川崎銀行本店(東京・日本橋)ー
 ルネッサンス様式を基調としており、当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的な銀行建築です。ー昭和2年建築ー

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 あすも続きます。

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思い出写真館ー明治村5ー

  明治村ー5ー

 きのうの続きです。

 ー菅島灯台付属官舎(鳥羽)ー
 イギリス人技術者の設計管理よって伊勢湾の入口‘菅島(すがしま)’に建てられた洋式燈台付属の官舎です。レンガ造の壁に木造の洋載せて桟瓦を葺いています。ー明治6年建築ー

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 ー宗教大学車寄(東京・西巣鴨)ー
 高さ6.9mで、腰石には花崗岩が積まれていました。本館が消え去ることを惜しみ、明治の俤を残すこの部分を解体・保存したそうです。人物奥に見えています。ー明治42年建設ー

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 ー神戸山手西洋人住居(神戸)ー
 総二階の主屋と付属屋からなる住宅で、貿易港に相応しい洗練された本格的な西洋館になってます。ー明治20年建築ー

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 ー品川燈台(東京・品川)ー
 避雷針先端までの高さは約9m、現存する様式灯台では日本最古のものです。ー明治3年点灯ー

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 ー尾西鉄道蒸気機関車1号(名古屋)ー
 ‘尾西(びさい)鉄道’が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車です。ー明治30年製造ー

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 あすも続きます。

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思い出写真館ー明治村4ー

  明治村ー4ー

 きのうの続きです。

 ー京都市電(京都)ー
 わが国で初めて市内電車として開業した‘京都市電’です。ー明治28年創業ー

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 ー北里研究所本館・医学館(東京・白金)ー
 八角尖塔を頂くこの建物は、日本の細菌学の先駆者‘北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)’が建てた研究所の本館です。ー大正4年建設ー

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 ー幸田露伴住宅「蝸牛庵」(東京・東向島)ー
 小説「五重塔」などを発表して一世を風靡した‘幸田露伴(こうだ ろはん)’は、自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えています。隅田川の東にあったこの家もその一つで、明治30年から10年間を過ごしています。ー明治初年建築ー

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 あすも続きます。

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思い出写真館ー明治村3ー

  明治村ー3ー

 きのうの続きです。

 ー札幌電話交換局(札幌)ー
 防火のため札幌軟石を用いた石造りで建てられ、一階はアーチ窓、二階は目草窓(まぐさまど)を採用しています。ー明治31年建設ー

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 ー安田銀行会津支店(福島・会津若松)ー
 伝統的な土蔵造りをもとにしていますが、要所には洋風のデザインが施されています。ー明治40年建築ー

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 ー東松家住宅(名古屋)ー
 木造建築では珍しい三階建てで、重要文化財の指定を受けています。ー明治34年建築ー 

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 ー東山梨郡役所(山梨)ー
 擬洋風建築のひとつで、木造二階建。正面にベランダを配した左右対称形は当時の官庁建築としては典型的です。人物の奥に見えています。ー明治18年建築ー

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 ー京都七條巡査派出所(京都)ー
 木造建物ですが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげています。ー明治45年建設ー

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 あすも続きます。
 

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思い出写真館ー明治村2ー

  明治村ー2ー

 きのうの続きです。

 ー学習院長官舎(東京・目白)ー
 和館と洋館ををつなぎ合わせた形式になっており、座式生活の場である和館は、総二階建となってます。当時の学習院長は陸軍大将‘乃木希典(のぎ まれすけ)’だったそうです。ー明治42年建築ー

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 ー西郷従道邸(東京・上目黒)ー
 木造総二階建銅板葺のこの洋館は、陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任し、維新政府の中枢に居た‘西郷従道(さいごう つぐみち)’(隆盛の弟)の邸宅です。ー明治10年建築ー

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 ー森鴎外・夏目漱石住宅(東京・千駄木)ー
 明治中期のごくありふれた39坪余りのこの建物は、明治23年‘森鴎外(もり おうがい)’が借家、一年余りを過ごし、また、明治36年から39年までは‘夏目漱石(なつめ そうせき)’が借りて住んでいました。ー明治20年建築ー 

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 あすも続きます。

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思い出写真館ー明治村1ー

  明治村ー1ー

 きょう想い起こされるのが明治時代の代表的な建築物を全国から集め、移築して構成した野外博物館『明治村(めいじむら)』(愛知・犬山)です。

 100万平方メートルの敷地に‘西郷従道(隆盛の弟)’邸や、‘森鴎外・夏目漱石’旧宅、‘旧東山梨郡役場’‘帝国ホテル正面玄関’などの建物を初め67件の貴重な文化財が保存展示されています。
 平成8年に訪ねました。
 15年前にフィルムカメラで撮った古い写真でお見苦しいですが順次ご紹介します。

 ー第八高等学校正門(名古屋)ー
 赤レンガに白い花崗岩を配した四本の門柱で出来ており、現在「博物館明治村」の正門として使われています。ー明治42年建設ー

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 ー三重尋常師範学校・蔵持小学校(名張)ー
 奥に見えるのが、アーチや入母屋の屋根をいただた洋風建築の校舎です。ー明治21年建築ー

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 ー大井牛肉店(神戸)ー
 牛肉販売と牛鍋の店として使われた洋風の建物で、正面が華やかに飾られています。ー明治20年建築ー

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 ー赤坂離宮正面哨舎(東京・元赤坂)・近衛局本部付属舎ー
 手前の、銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗った建物は‘赤坂離宮’を警護するために設けられたものです。ー明治41年建設ー
 奥の建物は、‘宮城’警護のために設置された‘皇宮警察’庁舎の一部です。ー明治21年建築ー

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 ー聖ヨハネ教会堂(京都)ー
 木造煉瓦造二階建て銅板葺で、細部はゴシック風。‘日本聖公会京都五条教会’として建てらたものです。ー明治40年建築ー 

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 きょうは「明治村」が開村がした日(昭和40年(1965)です。

 あすも続きます。

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思い出写真館ー城めぐり19・松本城・小諸城址ー

  ー松本城・小諸城址ー

  松本城

 北アルプスを背景に5層6階の天守閣が立つ『松本城』(長野・松本)は、約400年前、‘徳川家康’に仕えた‘三河の旗頭’の一人・‘石川数生(いしかわかずまさ)’によって築城されました。
 昭和11年(1936)に国宝に指定され、現存する国宝の天守閣としては最古のものです。
 天守を中心に、‘乾小天守’・‘渡櫓’・‘辰巳附櫓’・‘月見櫓’という5っの建物が複合連結しています。

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ー漆黒の「松本城」は、別名「烏城(からすじょう)」とも呼ばれていますー

  小諸城址

 ‘豊臣秀吉’天下統一のとき(約400年余前)、城主‘仙石秀久(せんごくひでひさ)’が築いた『小諸城』(長野・小諸)の跡は、現在「懐古園(かいこえん)」となっており、‘野面石積(のづらづみ)’の石垣が当時のままの姿で残されています。

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 園内には明治の文豪‘島崎藤村’の小諸時代を紹介する「藤村記念館」があります。

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 千曲川を望んで「藤村像」と「詩碑」が建っています。

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   “小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ・・・”
 

 

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思い出写真館ー城めぐり18・松山城ー

  松山城 

 『松山城』(愛媛・松山)は、慶長7年(1602)‘賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍’で名高い‘加藤嘉明(かとうよしあきら)’が、市の中心、標高132mの‘勝山’山頂に25年かけて築城しました。

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 寛永12年(1635)に‘徳川家康’の伯父にあたる‘松平定行(まつだいらさだゆき)’が入部以来、松平氏15万石の居城として明治を迎えました。

 天明4年(1784)落雷のため焼失しましたが、文政3年(1820)に3層の天守閣が再興されました。
 その後、昭和に入り小天守閣やその他の櫓が、放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が推進されました。
 その結果、今では天守閣周辺に復元された重要文化財の門や櫓21棟が建ち並び、往時の姿を見事に甦らせ、日本三大平山城(津山城・姫路城とともに)の一つに数えられています。

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       ー3枚目の写真、右が天守、左が小天守ですー

 天守閣に登ると、眼下に門や櫓、更にその向こうには市街地が一望のうちに展開しています。

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          “春や昔 15万石の 城下哉”・・・子規

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思い出写真館ー大阪万博ー

  大阪万博

 “♪こんにちは こんにちは 西のくにから~こんにちは こんにちは 東のくにから~♪” 世界の国からこんにちは・・・三波春夫
 きょう想い起こされたのが『大阪万博(日本万国博覧会)=EKPO’70』です。

 ‘人類の進歩と調和’をテーマに掲げた「大阪万博」(大阪・吹田)は、期間中の総入場者数が6,421万8,770人と、昨年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまで、万博史上最多を記録しました。
 参加国数も77ヶ国に上り、戦後、高度成長を成し遂げた日本がアメリカに次ぐ経済大国となった象徴的な意義を持つイベントとなりました。

 人気パピリオンでは数時間の待ちが出るなど大量の人で混雑し、特にアポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々と続きました。
 
 この万博のイベントは、9月13日までの183日間で幕を閉じました。

 きょうは「大阪万博」が開幕し、一般公開が始まった日(昭和45年(1970)3月15日)です。

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ー写真は平成4年から数年に亘って撮った万博のシンボル「太陽の塔」です。芸術家の故・岡本太郎氏の制作によるものですー

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思い出写真館ー浅野内匠頭ー

  浅野内匠頭

 ‘♪勅使下向(ちょくしげこう)の春弥生(はるやよい)~いかに果たさん勤めなん~身は饗応の大役ぞ~♪’・・・刃傷松の廊下
 きょう想い起こされるのが播州・赤穂藩主『浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)』です。

 時は元禄14年(1701)3月14日、幕府より勅使御馳走役として任命された「内匠頭」が、高家筆頭の「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)」の仕打ちに遺恨を持ち、江戸城本丸松の大廊下で刃傷におよびます。
 これが殿中刃傷事件です。

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ー皇居東御苑の植込みの中に「松の廊下跡」と記した標石がありますー

 罪人となった内匠頭は、不浄門と呼ばれた「平川門(ひらかわもん)」から運び出されます。

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           ー東御苑入口の「平川門」ですー

 “風さそふ 花よりもなお我はまた 春のなごりを いかにとやせん”
 おあずけの身になった内匠頭は即刻「田村屋敷(たむらやしき)」の庭先で切腹となります。

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      ー東京・新橋4丁目にある「田村屋敷跡」の碑ですー

 三大仇討ちの一つ、ご存じ「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」の物語はこれより始まります。(12月9日~27日「忠臣蔵を歩く」参照)

 きょうは「浅野内匠頭」が切腹して果てた日(享年35歳)です。

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思い出写真館ー城めぐり17・高知城ー

  高知城

 市の中央にある‘大高坂に’に、ひときわ高く天守閣が聳える『高知城』(四国・高知)です。

 関ヶ原の戦いの功績により‘徳川家康’から土佐一国・24万石を拝領した‘山内一豊(やまうちかずとよ)’によって慶長8年(16039)に創建されました。

 宝暦3年(1753)に再建された‘天守閣’のほか、‘追手門’などの古い建造物15棟や、苔むした石垣が現存し、全国でも有数の名城として国の重要文化財に指定されています。

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             ー4層6階の天守ですー

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                ー追手門ですー

 高知城全域は「高知公園」として開放されており、城内・三の丸へ登る石段沿いには‘一豊公の像’、夫のために馬を買った内助の功で名高い、妻‘千代(ちよ)と愛馬像’、当地出身の明治の元勲‘板垣退助(いたがきたいすけ)’の銅像が立っています。

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               ー一豊公の銅像ですー

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                ー千代の銅像ですー

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             ー板垣退助の銅像ですー

 ー平成15年に築城400年を迎え、再建から250年を数える、本物の城の持つ偉容が、今も訪れる人々を歴史のロマンに誘いますー

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思い出写真館ー城めぐり16・福山城ー

  福山城

 『福山城』(広島・福山)は、元和8年(1622)‘徳川家康’の従兄弟の‘水野勝成(みずのかつなり)’が築城、備後10万石の初代藩主となりました。

 福山駅のホームから5層6階の天守閣が見えます。
 昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和41年に復元され、旧観を取り戻しています。

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ー「福山城」は「葦陽城(いようじょう)」とも呼ばれた近世城郭の代表的な遺構で、日本100名城に選定されていますー

 

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思い出写真館ー城めぐり15・川越城ー

  川越城

 『川越城(かわごえじょう)』(埼玉・川越)は、長禄元年(1457)戦国の雄将で文人でもあった‘大田道灌(おおたどうかん)’によって建造されました。

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 約5万坪の平城でしたが、天守閣は現存しません。嘉永元年(1848)に建てられた‘本丸御殿’の玄関と大広間が残っており、往時を偲ばせます。

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ー「川越城」は別名「初雁城」とも呼ばれ、関東七名城の一つに数えられましたー 

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思い出写真館ー城めぐり14・金沢城ー

  金沢城

 加賀百万石の本拠『金沢城』(石川・金沢)は、‘前田利家(まえだとしいえ)’が加賀・能登を支配するため天正11年(1583)に入城して以来、約300年間にわたり‘前田家’の居城でした。

 天明7年(1787)に建立された重要文化財の‘石川門’と‘二重櫓’を残すのみとなり、城址には「金沢大学」が開学していましたが、平成7年に石川県に移管され、現在は「金沢城公園」として一般開放されています。

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            ー石川門と二重櫓ですー

 平成13年(2001) 第1期工事により、‘菱櫓’・‘橋爪門’・‘橋爪門続櫓’・‘五十間長屋’が復元。平成18年(2006)日本100名城に選定され、平成20年(2008)には‘金沢城跡’として国の史跡に指定されました。

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               ー菱櫓ですー

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               ー橋爪門ですー

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             ー橋爪門続櫓と五十間長屋ですー

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思い出写真館ークラーク博士ー

  クラーク博士

 “Boys, Be Ambitious”
 きょう想い起こされるのが『クラーク博士(ウィリアム・スミス・クラーク)』です。

 マサチューセッツ農科大学の学長であったクラーク博士は日本政府の熱烈な要請を受け、明治9年(1876)7月、札幌農学校(現:北海道大学)設立と同時に教頭として赴任します。
 職名をPresidentと表記することが許可され、実質的には校内の全てを取り仕切りました。
 
 8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の明治10年(1877)5月に離日します。
 任務を終えアメリカに帰るとき、別れの際に学生達に残した有名な言葉が“ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ 大志を抱け)”でした。

 (註)帰国後のクラークは鉱山会社を設立し、当初は莫大な利益をあげましたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされ、失意のうちに心臓病によりこの世を去りました。
 
 きょうはクラーク博士が亡くなった日(明治22年(1889):行年59歳)です。

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     ー北海道大学構内にある「クラーク博士」の胸像ですー

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思い出写真館ー忠犬ハチ公ー

  忠犬ハチ公

 きょう想い起こされるのが渋谷(東京・渋谷区)のシンボル『忠犬ハチ公』です。
 駅前にある銅像は待ち合わせ場所の目印として全国的に知られ、「渋谷ハチ公前」などと通称されます。

 ハチ公は大館生まれとありますから、まぎれもなく秋田犬です。
 ご主人様は近代農業土木の祖といわれる「上野英三郎(うえの ひでさぶろう)博士」です。

 博士は温情を一心に注いで育てていましたが、ハチ公が2歳になる前に突然亡くなりました。
 それを知らないハチ公は、今までのように、雨の日も風の日も毎日毎日決まった時刻に駅前に現れ、主人の帰りを待ち続けていたのです。
 ハチ公の一途な姿は人々に深い感銘を与え、忠犬と呼ばれるようになり、昭和9年に銅像が建てられました。
 除幕式にはハチ公自身も出席したそうですが、翌10年のきょう亡くなりました。老齢13歳でした。

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 青山霊園(東京・港区)の博士の墓の脇で、小説家‘志賀直哉(しが なおや)’や、歌人‘吉井勇(よしい いさむ)’らの有名人と一緒に眠っています。

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思い出写真館ー城めぐり13・龍野城ー

  龍野城

 『龍野城(たつのじょう)』(兵庫・龍野)は、明応8年(1499)に豪族・‘赤松村秀(あかまつむらひで)’が‘鶏籠山(けいろうざん)’の高台に築いた城ですが、天正5年(1577)に‘織田信長’の命による‘豊臣秀吉’の播州征伐で軍門に降り開城しました。

 「霞城(かすみじょう」と呼ばれた城跡には、昭和54年(1979)に‘埋門(うずめもん)’が構えられ、東西にのびた城壁の両端に‘多聞櫓’と‘隅櫓’も復元されました。

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 ー龍野市(たつの市)は、童謡「赤とんぼ」の作詞者‘三木露風(みきろふう)’の故郷として知られ、‘素麺’や‘淡口醤油’も有名ですー

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